狭山丘陵でのきのこ狩り
90年代半ば、秋に友人と狭山丘陵にきのこ狩りに行くと、いつも数人の長靴や地下足袋姿の地元のきのこ狩りの方々にフィールドで頻繁に出会いました。その方々の話では、70、80年代は既に湖側へのアクセスは制限されていましたが、抜け道等が数多く存在していて、きのこシーズンには当時以上に沢山の地元のきのこ狩りを楽しむ人々で賑わっていたようです。 ぼくらと同年代(60年代前半生まれ)で東村山、東大和、武蔵村山や所沢辺りで育った肉食系男子であれば、少年時代に魚釣り(ワサカサギ釣り)等で湖に行った経験のある人は少なくは無いと思われます。またその当時には今では想像もできませんが、散弾銃で鳥を撃っている銃声をよく耳にしました(看板)、山中には薬莢が落ちていました。50年代生まれの先輩達の話では車で湖の近くまでアクセスできたそうです。その証拠に放置されたままの60,70年代製の車が数箇所で放置されているのをその昔に見た記憶があります。90年代まで車でアクセスできた狭山丘陵の一画にある辻に, きのこ狩りの地元の人々が車や自転車を停めて置く場所がありました。僕らはこの場所をきのこ狩り銀座と呼んでいた。 そこには老若男女すでに収穫してきたきのこで満たされた腰籠の中身を品定めしながら一休みしている人や、これから山に入る人などが情報収集のために集まっていたものでした。以前に採ったマイタケの自慢話をしてくる方や、毎週末に自転車に腰籠やヤマイモ堀用のスコップを載せてやって来るよぼよぼのおじいさんや、当時きのこの知識などほとんど無い僕らにナラタケ、クリタケ、ムラサキシメジ、アカモミタケなどを見せながら、地元の方言名でそれらのきのこの食べ方などの説明をしてくれるおじさん等々が自然に集まる場所でした。 秋に周囲の村村の人々と、きのこを通しての四方山話から情報交換の役割もあったのではないかと想像させられるような交流場所としてのきのこ狩り銀座であり、そこには湖が作られるずっと以前から受け継がれていただろう地元の人々の昔の暮らしぶりの一端がきのこ狩りを通して、透けて見えるようであり、ほのぼのとした不思議な安らぎ感を味わえるのでした。
きのこ狩りに来ていたある老人の腰籠を見せてもらった ↓ 2000年10月28日
脇の白い袋にはたぶんマイタケが入っていたのかな?
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